温泉とテレビが好きな私の日記

誰かに気を遣うことのない、思った事をそのまま書いてみるところ。

人見知り論、盛り上がってるなー

ちょっとまえですが、こんなブログを読んだ。

星野源さん、”人見知り”を斬る - 青春ゾンビ

文章と考察が独特でとても面白い。いつも興味深く拝見してます。

サワコの朝はもちろん見たし、星野源が人見知りについてエッセイで書いているのも読んだ。

ネットニュースの記事にもなってて、 「僕の場合は」というのが記事では切られていたのもあり、結構な反論も出てた。

人見知りかー、自分もそうだ。
で、「自称・人見知り」の人間からすると、青春ゾンビさんの論調に同意するかな。
別に星野源に反論とかをする気もないし、星野源の言ってる事は正論だと思う。

「人見知りでと言うのは『自分はコミュニケーションを取る努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください』と恐ろしく恥ずかしい宣言をしてることと同じだと思った」
おっしゃる通りだ。

でも、そもそもエッセイやインタビュー見てる限り、星野源って根っからの人見知りじゃないよね?
憧れの細野さんに初めて会いに行くのに、ハリー細野のコスプレで行ける人は人見知りって言わないのでは?(笑)

調べてみると、人見知りっていうのはそもそも子供に使う言葉で、大人が人と接するのが苦手な事を言うのは後からの意味だ。
で、人見知りの原因はというと元々動物が他の物に対する本能的な恐怖で、生き抜く為の必要な反応な訳だね。
ということは自分は野生的なのか?(笑)

自分は子供の頃とても人見知りだった。
2つ下の弟が懐っこい子で人の集まりで真ん中でキャイキャイ騒いでたのに比べると、本当に陰に隠れてる子だったそうだ。

小学校入学直前、親の転勤で引っ越して、まったく知ってる子のいない小学校に入学した。
当然まったく馴染めず、今でも覚えてるのは、給食のときスプーンを曲げられると自慢した子がいたので、なんとか話に入ろうと黙ってスプーンを曲げてみた。
案外簡単に曲がったので黙ってそれを見せたら、話に入れるどころか「あー、いけないんだー!」とはやし立てられてしまい、弁解すら出来なくて泣いてしまった。
先生が「どうしたー?」となだめてくれても一言も喋れなかった。
あー、今だに思い出すとツライ💧
小学校低学年の記憶なんてそれくらいしか残ってないかも。
担任の先生の名前も覚えてるし、うっすら顔も浮かぶくらい。
30代後半か、お父さんと同じくらいに見えた眉毛の濃い男の先生。優しかったのに。

星野源は子供の頃、全力で好きーと表してしまうウザい子だったと書いている。
それって元々の資質が人見知りじゃないってことなんでは?
自分と逆だ。
「人見知りする子供」と「人見知りしない子供」2種類の資質。
そこから成長過程でいじめられる事があって、人と接するのが苦手になったのだとしても、
さらに経験を重ねて「自分は受け入れられる」ってことをわかって行くことで本来の「人見知りしない子供」の出し方を学習しなおす。
だからああいう正論が言えるし、それはまったく間違ってない。

自分は逆側のスタートで、成長するにつれ「人見知りをする子供」な自分が辛かったし恥ずかしかった。
あたりのいい子が声をかけてくれても「まさか自分に?」と上手く返答できなくて先に繋がらない。
いじめられた事もあったから、ますます人との接し方がわからない。
自分の何がダメなのか?性格なのか?容姿なのか?
実は結構キツイ性格なのに、見た目がおっとりして見えてしかも一見無口なので、そう思って接してくる相手が、慣れると全く違う人間なのにビックリされて引かれてしまい、それが続いてますますどうしていいかわからない。

大学の頃、友人の知り合いのイベントの手伝いに行った時、自分では頑張ったつもりだったのに全然喋らなかったらしく
帰りに友人に「あんた本当に人見知りなんだねー」と言われた。
通常のおしゃべりで結構キツイ自分を知っている人間にそれを言われるのはものすごく恥ずかしかった。

大人になればなるほど「人見知りです」と言うのは恥ずかしい。
星野源のいうように「コミュニケーションを取る努力をしない人間」に思えたからだ。
けれど、本質が「人見知りする子供」の自分にとっては本当にハードル高いことなのだ。
決して努力を放棄してるわけじゃない。
運動出来る人が運動出来ない人間のことが本当に理解できず、ふざけてるとしか思えないというのと同じように、
「人見知りしない子供」だった人から見れば、「人見知りする子供」がなぜとまってしまうのか、理解できないだろう。
本当に相手にどう対応したらいいのかわからないのだ。
理由じゃなく、もともとそうなのだとしか言いようがない。

それでも大人になれば、自分がその場で最年長、という状況が増えてくる。
そうすると、人見知りするとか言ってられない。
ずっと歳下の人間に向かって「人見知りなんですー」とはにかむ大人。
客観的に見たらなかなかイタイ💧自分は普通の大人になりたいのに。

少なくとも、一般社会人として生きていくのなら、人見知りをある程度なんとかしないとやってけないのを実体験で知り、
「受け入れてもらった体験」「外したけど、多分向こうは気にしてない」そういうなんとかうまく行ったことだけを蓄積しながらやってきた。

そうやって「人見知りする子供」の自分とつきあいながら生きてきた人間からすると、
星野源の人見知り論は腹が立つとかじゃなく、ひたすら羨ましい。

中学生のときいじめられたことがあったので、その後随分と対人関係を作ることが苦手だった。
高校で友達も多くいつも輪の中心いるタイプの子が「中学のときいじめられた」と言ってるのに心底ビックリした。
なんで、それで今そんなに明るく人と関われるんだろうと思った。
今思えば彼女も本質が「人見知りしない子供」だったのかもしれない。

星野源も色々あったにしても、大人になって本質の「人見知りしない子供」が出せるようになったから、ああいう話ができるのかもなぁと思うと別に反論はない。
元々の方向が逆なのだから経緯と到着点が違うのも当然かなーと思う。
それぞれの本質の上に、経験したものを積み重ねるしかないのかな。

子供の頃は大人になれば、自然に人見知りって治るんだと思ってた。
経験値を積んで格段に技術は上がったけど、ねっこのところは変わらない。
今の自分はどちらかというと社交的な人と思われてるようだけど、これは努力で着飾っただけ。
人と接するのはしんどい。
本当に気を抜いて接することができる相手は片手もいないんじゃないかと思う。
ネットニュースで星野源の記事に反論してた人達の気持ちはよくわかる。

星野源が「人の話を聴きたいんです」と屈託無く笑いながら話す姿がとても眩しい。
キラキラしてて素敵だよなぁ。

三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだよ。
人間が嫌いな訳じゃない。扱い方が今だによくわからないだけなんだ。
そしてずっとそうなんだろうなぁ。