温泉とテレビが好きな私の日記

誰かに気を遣うことのない、思った事をそのまま書いてみるところ。

「半分、青い。」最終回を迎えて、色々と思ったこと

半分、青い。」が終わりました。

良くも悪くも話題になって爪痕を残したドラマでした。

自分もドラマ自体や周りの場外乱闘を眺めていて朝ドラについてとか、クリエイターについてとか色々思ったので書き出してみようかと。

感想は今まで結構書いてるので、割と全体の事とか。

 

最初に言っておくと、自分は全部は見てません。すみません。

 1〜2話のあと離脱、漫画家編数話前から復帰、漫画家編終了後結婚した次の週くらいまで飛び飛びでその後離脱、 147話から復帰して最終話までは見た。 

基本的には内容に不満がある派です。

 

○やっぱり最終回はつまんない問題はクリアできなかった。

朝ドラに限らず、連ドラで最終回が面白いものって意外と多くない。最終回前まで盛り上げに盛り上げると回収にてんてこまいで、まとめの羅列になってるようなドラマって結構多い。

脚本家が煽りに煽ったし、永野芽郁も「台本落とした」と言っていたので、実は不満派の自分も最終回はビックリするようなオチを見せてくれるのかと期待していた。

が、めちゃオーソドックスなまとめで、しかも結局鈴愛と律はくっつくというオチに拍子抜け。ここまできたら擁護派も斬り捨てるくらいの「鈴愛は一人たくましく生きていく!」くらいやってくれるとか、 147話でいくところまでいってバカップルぶりを見せつけるとかしたら逆に感心したのだけどなぁ。

最終回というより、最終週で見てみるとしても子供がイジメられるとか(自分はあれはイジメの前段階だと思ってますが)、震災で知り合いが亡くなるとかも割とベタなネタだし、最終週に持ってくるという露骨なヒキにちょっと日和ったなぁと思う。

 

○「新しい朝ドラ」を目指した結果の迷走が気になる。

脚本家が「朝ドラだから、こういうことはやめておこうという考え方はせず、一切逃げないで書いた」と言っていて、それは本人としてはそうだったんだろうと思う。けれど、それが上手くいっていたかというと疑問。

過去作見るに、まずは朝ドラで得意の恋愛メインをやりたかったんだろうと思う。そしてプロデューサーから「朝ドラなので家族の話を入れてください」と言われたとも言っていた。

プロデューサーはインタビューで「平成最後に朝ドラで平成史をやりたかった」と言っていた。

この段階で「恋愛」「家族」「平成」と入れなくてはならない軸が3本。ここでやめておけばよかったのにと今なら思う。

朝ドラ 156話× 15分て確かに長いのだけど、時間にすると39時間、連ドラ3クール分。

とは言え、アバンがあってオープニングがあってと考えるとそこまでテーマ捻じ込める長さでは無いのでは?

ましてや1番描きたいステキシーンで尺を取ると話が進まないということもしばしばあったので、40年間を描きたいならテーマは絞るべきだった。

別に恋愛に邁進するヒロインでもよかったと思うんですよ。恋に夢中で流行りが好きで、話題の仕事についてはすぐ辞めちゃうような。

明らかに不得手な仕事描写が雑で反感を買ったんだし、ましてや震災の消化不良ぶりときたら…💧得意の恋愛に絞っておけばまだましだったかも。

「新しい朝ドラ」というなら、何も無理してヒロインが何かを目指さなくても良かった。結局、言ってる脚本家本人が朝ドラのフォーマットに囚われているように見えた。基本の裏を全てやらなくては!という感じで。

以前何かで読んだストーリーで「大きい嘘をつくためには周りに小さな真実をちりばめる」というセリフがあって、これって何にでも言えるなぁと思った事がある。

朝ドラとして目新しい事をやるなら、それ以外のところは手堅い朝ドラフォーマットに敢えて抑えておく事で目新しさが光るのじゃないか?

あれもこれもとぶっこんで破綻、というのはプロとして1番恥ずかしいような気がするよ💧

 

○クリエイターのセンスと旬というものについてあれこれ考えた。

自分がなぜこのドラマを見たかというと星野源が主題歌で豊川悦司が出ていたから。

で、豊川悦司演じる秋風羽織というキャラの設定について色々気になっていた。

登場時にはすでに50過ぎの少女漫画家、しかも男という設定に意味はあるのか?

秋風先生のマンガという設定でくらもちふさこのマンガを使うのを放送前に知った時からモヤモヤしてた。くらもちふさこの絵はいかにも女性の絵で男性から出てくるタッチとは到底思えない。

そもそも女性の少年漫画家にくらべ男性の少女漫画家って少ない。それは少女漫画でまず求められるテーマが思春期の少女の心の動きだからだ。実体験としてそれを持たない男性はまず難しい。だから男性の少女漫画家はSFやコメディだったりと恋愛物以外を描く場合が多い。

そしてそもそも女性ですら50歳の現役少女漫画家ってほぼいないのでないのか?

もちろん現役の50オーバーの漫画家はたくさんいる。しかし本人の年齢が上がるにつれターゲット層の年齢を上げ大人向け漫画にシフトするのがほとんどだ。年が離れ思春期の少女の気持ちが分からなくなった分、大人の話を描ける訳だ。

しかし20年経って70オーバーになった秋風先生は相変わらずガーベラに描いている。そして20年以上前の作品「A-girl」の続編をユーコのために描くと言う。70過ぎの男性が描く少女漫画はどんなものなんだろうか?

自分はどうしてもこの設定が気になる。おそらく脚本家は大したこと考えていないんだとは思う。豊川悦司を押さえてヒロインの師匠役にする。ヒロインが漫画家目指すからベテラン漫画家に設定する。それだけ。

ちょっと出るだけだから、雑誌が変わったとかの説明も時間かかるだけ無駄だしというのもあるだろうし。

だけど、この設定を良しとしてしまうところに脚本家のセンスの鈍さを感じてしまうのだ。

カーネーション」で40代後半になった糸子が若いデザイナーのデザインを娘達は分かるのに自分はいいと思えず不安に思うエピソードがある。

また以前、50代のフリーのグラフィックデザイナーが年齢のために仕事が来なくなったという記事を見たこともある。

物を創るという仕事は色々あるけれど、あきらかに若さが強みというジャンルがある。少女漫画はその典型だ。実際10代でデビューするのが珍しくない業界だし。

創るものの性差というものもある。実際ペンネームを使ったりしても絵柄や内容で作者の性別って案外わかる。女性でしか出せない、男性ならでは、というようなものは確かにある。

そういうジャンルに50代の男性をサクッと設定してしまう。

いい方に解釈すれば、秋風の天才性を表そうとしたのかもしれない。けれど自分はそういう雑さに脚本家のクリエイターとしての鈍さを感じてしまう。

実際、今回のドラマでは脚本家のセンスの古さをあちこちに感じた。

特に名前だったり容姿だったり年齢だったり、その人の努力ではどうにもならないところを馬鹿にするシーンが多いのはウンザリした。

今年「みなさんのおかげでした」が終了して、自分もまあそうだろうなと思った。子供の頃あれだけ面白いと思って見ていたのに、最近はただひたすら人を馬鹿にするネタが多くて見なくなった。そういうノリはもう通じないんだよね。

やたら律の容姿ばかり褒めるのも同じ事。「美しい」というキャラ設定を使うのはいいけれど、ただひたすら誰に会っても「綺麗な顔」しか言われない。

ボクテのゲイ設定も雑だった。ヒロインを巡る数々のイケメンキャラの 1バージョンの扱いでしかない。なんでも話せる女友達のようなイケメンのゲイ。あー、女性の憧れるテンプレ設定だ。

明らかに、自分の全盛期90年代のノリを引きずっていて、なぜ2018年にもなってこんなものをやっているのだろうと見るたびに思っていた。

クリエイターとして持ち続けるべき自分のらしさと、時代に合わせてアップデートしていく部分、そのすり合わせは誰もが悩むところなのだと思うけど、この脚本家は悩む、というところに行くどころか考える必要があるということにすら気づいていないように見える。

テレビドラマという時代を映すものを作るのにその鈍さは致命的だ。

少なくとも自分はそういうものには魅力をかんじないのだなぁと改めて気がついた。

 

○製作者側にはSNSの研修でもしないとダメなんじゃないか問題

それこそドラマ制作が発表されてからずっと、脚本家のSNSキッカケの炎上騒動が続いていてウンザリしていた。

Twitterで実況をするという事に自分が気がついたのは「とと姉ちゃん」の時で割と遅い。

その頃から、タイトルのみの本タグと「反省会」タグがあるのは知っていた。

お互い好意的な人をとそうでない人、好きなだけ語れるように住み分けするのはいい文化だなぁと思っていた。

が、今回はもうそれが派閥のようになって日々争いが勃発していて、朝ドラ関連のタグを一切見ないようにしていた時もあった。

そして、明らかにその争いの火に油を注いでるのが脚本家本人という事実が本当に腹が立つ。

自分は物の作者に人間的な正しさは求めない。性格悪かろうがどうでもいいと思ってる。

けれど、作品を創るということにプロである事は大いに求める。と言うか、プロでないクリエイターなんてクズだと思っている。

そういう意味で北川悦吏子という人のやり方はプロ失格だった。

プロは作品でまず語るべきと思っているので、毎日のTwitterでの言い訳が本当にウザかった。それがネットニュースになり、自分で見なくてもどんどんリツイートされてくる。

当然自分と同じように腹をたてる人がいて、その中には直接文句を言いはじめる人もいる。

プロであるべき脚本家がグダグダ言ってるんだから、視聴者が言うのも当然だ、と。

そしてそういうシロウトのツッコミを受け流すことも出来ず喧嘩を売り返す。

今の世の中人前に何かを晒すにはいかにスルースキルをつけるかが大事かという見本みたいな出来事だ。

 

自分は好意的でもそうでなくても、誰もが自由に自分の意見を言えるのがSNSのいいところだと思ってるし、だからこそそのためにマナーが必要だと思ってる。

自分と意見が違うというだけで相手の人格否定をするなんでもってのほかで、そういう輩が脚本家のTwitterに次から次へとやってきて、対応大変だなぁとは思った。

そして売られた喧嘩は買わずにいられないタイプの人がいるのもわかる。自分も近いものがあるし。

けどね、やっぱり今回はまず脚本家がスルーするのが必要だったなと思う。それがプロの仕事のうちだったんだよなぁ。

結局炎上芸なんて、見てて楽しくなんて全く無いよ、本当に。

 

まあ、作品見てても自己顕示欲が強そうな人だしね。この先も治らないでしょう。

いろんな所に自分を投影していてそこがいじられていたけれど、特に笑えるなぁと思ったのは、再会した正人の彼女が 10歳年上ということ。正人は鈴愛達と同じ年だから、 10歳年上って正に脚本家と同じ年。ドラマ始まってから中村倫也がかなりお気に召した様だしなぁ。

なんか、ここにもコンプレックス的なものが見えた気がした。

散々ドラマ内で若くない女をディスり続けていたけれど、脚本家本人が今正に若くない女な訳で、それで自分と同じ年の女を正人の彼女に設定したことで、自分の若くなさをコッソリ肯定してるのかなぁと思った。

作品や行動の端々に現れる自己顕示欲的なものは、実はコンプレックスの裏返しという結構わかりやすい心理なのかもしれない。

でも、それを「可愛い」とは思えないけどね(笑)これだけの騒動を起こしておいてプロとしてどーなんだ⁈という気持ちの方がずーっと強いしね。

 

結局、否定派の自分ですらあれこれ言いたくなるヒキの強さがあるのだから、もうちょっと大人になれればクリエイターとして一歩進める人なのかもしれないけど、できるかなぁ?

「悪名は無名に勝る」とは言うけれど、よりによって朝ドラでそれをやった事はふざけんなよー!と思ってる。

朝ドラってやっぱり特殊なドラマなんですよ。

この夏は災害が多かったから、台風や地震の度に視聴率が上がってた。それでもわかるように視聴習慣で見てる人が多い訳で、そんな時に気分が悪くなるようなものはできれば見たくない。

そう言う意味では色々間違えちゃったんだなーと思いました。

 

とりあえず、半年終わりましたね。

どちらの方もお疲れ様でした。